旧グランドホテルは、駅を出てすぐの場所にそびえ立っていた。
かつては街のランドマークとして君臨していたビルは、今では薄暗い影となって街を見下ろしている。正面玄関には「立入禁止」の看板。一階のロビーは暗く、かつての華やかさを想像することすら難しい。
時計は午後6時52分。
「入り口は…」
建物を一周してみると、裏手に小さな扉が見つかった。意外なことに、扉は少し開いている。中から漏れる光が、この建物がまだ生きていることを示していた。
扉を開けると、そこには一人の男性が立っていた。黒いスーツに身を包み、白い手袋をはめている。まるでホテルの従業員のような出で立ちだ。
「村上様ですね」
私の名前を知っていることに驚く間もなく、男性は無言でエレベーターへと案内し始めた。
私は戸惑いながらもその後に続いた。エレベーターの前で男性がカードキーを取り出す。普通のホテルのカードキーとは違い、真っ黒で何も書かれていない。
「お客様をお連れしました」
男性が誰かに話しかけているように呟いた。すると、エレベーターのドアが開いた。中は予想に反して明るく、清潔な印象だった。
12階のボタンを押すと、エレベーターはスムーズに上昇を始めた。男性は私の横で静かに立っている。話しかけるべきか迷ったが、この状況で会話を始めるのは適切ではないような気がした。
上昇中、私は自分の姿を壁面に映して確認した。ネイビーのスーツに青いネクタイ。普段の営業回りと変わらない出で立ちだ。服装は自由とはいえ、もう少しフォーマルにすべきだったのだろうか。
エレベーターが12階で停止する。ドアが開くと、そこには予想もしていなかった光景が広がっていた。
真っ白な廊下。天井から床まで、すべてが白で統一されている。蛍光灯の明かりが壁に反射して、まるで光の回廊のようだ。
「こちらへどうぞ」
男性に導かれるまま、廊下を進む。足音が不気味なほど響く。両側には扉らしきものもない。ただ白い壁が続いているだけだ。
突然、男性が立ち止まった。
「では、ここからはお一人で」
そう言うと、男性は来た道を戻っていってしまった。
私の前には一つの扉がある。といっても、それは壁と同じ白い色をしており、取っ手もない。よく見ると、扉の中央に小さな黒い円が描かれているのが分かった。
時計を見る。午後7時きっかり。
その瞬間、扉が音もなく開いた。中からは柔らかな光が漏れている。
「どうぞ、お入りください」
女性の声が聞こえた。若いような年配のような、年齢を特定できない声だ。
一歩踏み出す。部屋の中は、廊下とは打って変わって温かみのある照明に包まれていた。
部屋の中央には大きな円卓。その周りに七つの椅子が配置されている。すでに五人の人物が座っていた。全員がマスクを着用しており、年齢も性別も判断できない。
「お待ちしていました。Aの会へようこそ」
先ほどの女性の声が、再び私を迎え入れた。
「では、始めましょう」
扉が静かに閉まる音がした。もう後には引き返せない。A会の真実が、今まさに明かされようとしていた。
(続く)