机の上に一通の封筒が置かれていた。
いつもなら、部長からの書類や取引先からの資料で埋め尽くされているはずの机の上に、ぽつんと一つ。真っ白な封筒には「A会」という二文字だけが金色の筆記体で記されている。差出人の名前も住所も書かれていない。
「おかしいな…」
午後のコーヒーブレイクから戻ってきたときには確かになかった封筒が、たった30分の会議の間に現れていた。隣の席の山田さんは外出中。向かいの佐藤さんは書類に集中している。誰が置いていったのだろう。
私は慎重に封を開けた。中から一枚の白い紙が出てきた。そこには黒いインクで以下の文章が印刷されている。
「貴方を A会 にご招待いたします。
日時:本日午後7時
場所:旧グランドホテル12階
服装:自由」
時計を見る。午後6時15分。旧グランドホテルまでは地下鉄で20分ほどの距離だ。今すぐ出れば、ちょうど良いタイミングで到着できる。
デスクの引き出しからスマートフォンを取り出し、旧グランドホテルを検索してみる。築50年の由緒あるホテルは、経営難により3年前に営業を停止していた。12階には以前、高級レストランがあったはずだが、今はどうなっているのだろう。
「村上さん、まだ残ってたんですね」
突然声をかけられ、私は思わず封筒を引き出しに滑り込ませた。振り向くと、総務部の田中さんが立っていた。
「ああ、ちょっと残りの仕事を」と答えながら、私は自分の声が少し上ずっているのに気がついた。
「そうですか。じゃあお先に」
田中さんが去っていくのを見送りながら、私は深いため息をついた。なぜこんなに緊張しているのだろう。ただの招待状ではないか。でも、この完璧なタイミング。そして誰も見ていない間に届けられた謎の封筒。すべてが計算されているように思えた。
スマートフォンをポケットに入れ、コートを手に取る。せめて誰かに行き先を伝えておいた方がいいだろう。そう考えて携帯を取り出した瞬間、画面に新着メッセージが表示された。
「A会について、誰にも話してはいけません」
送信者不明。しかし、これが招待状の差出人からのメッセージであることは間違いない。
私の手が少し震えた。今なら引き返すことができる。常識的に考えれば、身元不明の招待状に従うのは危険だ。警察に相談するべきかもしれない。でも、この数か月、毎日同じような日常を送り続けている私の心の中で、小さな冒険への期待が芽生えていた。
35歳。システム開発会社の中堅社員。結婚もせず、特別な趣味もなく、ただ日々を過ごしている。この招待状は、そんな私に投げかけられた何かのメッセージなのかもしれない。
オフィスを出る前に、もう一度デスクの上を確認した。すべての書類は整理され、パソコンの電源も切ってある。明日の朝、いつもと同じように出社できる保証はないのに、習慣的な行動を止めることができない。
エレベーターを降りると、すでに辺りは暗くなりかけていた。秋の夕暮れは早い。人々は足早に家路を急いでいる。私だけが、非日常への扉を開こうとしているかのように。
地下鉄の駅に向かって歩きながら、私は自分の選択が正しいのか考え続けていた。もしかしたら、これは単なるいたずらかもしれない。あるいは、何か良からぬことに巻き込まれるかもしれない。
駅に着く直前、再びスマートフォンが震えた。
「あと30分です。お待ちしています」
背筋が寒くなる。私の行動は監視されているのだろうか。それとも、これも計算済みの演出なのか。
改札を通り、ホームに向かう。電車を待つ間、周りの乗客たちを観察してみる。誰もが当たり前のように、スマートフォンを見たり、本を読んだり、ボーっと前を見つめたりしている。私だけが、非現実的な冒険の入り口に立っているような感覚。
電車が到着する。乗り込んだ私は、窓に映る自分の姿を見つめた。少し疲れた顔の中年男性。特別なところは何もない。なぜ私がA会に選ばれたのか。その答えが、旧グランドホテルの12階で待っているのだろうか。
(続く)