マスクを受け取ってから、すべては早かった。
私はその場でスマートフォンを初期化し、新しい端末を受け取った。身分証明書やクレジットカードなどの携行品も、すべてA会が用意したものに交換された。
「これからは、必要最小限の持ち物だけを」
Bが説明する。「すべての行動が監視される現代社会で、私たちは痕跡を最小限に抑えなければならない」
午後11時、私は自宅のドアを開けた。部屋の中は、朝出たときと同じように静かだった。しかし、もう何もかもが違っていた。
デスクの引き出しを開け、例の証拠データの入ったUSBメモリを取り出す。これが、私がA会に選ばれるきっかけとなったものだ。
「おはようございます」
次の朝、会社に着くと田中さんが普段通りに挨拶してきた。昨日までと同じ会社。同じ机。同じ空気。でも、もう私は違う人間になっていた。
「村上さん、昨日の資料なんですが」
上司の山本部長が近づいてきた。彼は、あの不正を見逃した上層部の一人でもある。
「はい」
白いマスクの下の表情を思い出す。感情を露わにせず、冷静に対応すること。それがA会の第一のルールだった。
午前10時、新しい携帯が震えた。
「本日12時、指定の場所へ」
暗号化されたメッセージアプリには、カフェの位置情報が添付されていた。
「少し外出します」
同僚たちに声をかけ、オフィスを出る。誰も怪しむ様子はない。今までと変わらない、いつもの私のように見えているはずだ。
指定されたカフェは、オフィス街の裏通りにある小さな店。客はまばらで、奥のテーブルにはBが座っていた。
「作戦の詳細をお伝えします」
コーヒーを前に、Bは静かに話し始めた。
標的となる製薬会社・東和製薬の内部システムに、セキュリティ監査の名目でアクセスする。それが私に与えられた最初の任務だった。
「あなたの会社と東和製薬は、来月からシステム更新の取引を開始する。その担当者として、自然な形で内部に入り込める」
計画は既に動き出していた。私の会社の上層部にも、A会の影響力が及んでいたのだ。
「ただし」
Bの声が低くなる。
「今回の作戦には、大きなリスクが伴います。東和製薬の中には、私たちの存在に気づいている者がいる」
コーヒーカップが、僅かに震えた。
「一度でも疑いを持たれれば、すべてが水泡に帰す。最悪の場合は…」
言葉を濁すBの表情が、マスクの向こうで硬くなったのが分かった。
「準備はいいですか?」
私は黙って頷いた。もう後戻りはできない。これが、私の選んだ道なのだから。
カフェを出ると、陽射しが強くなっていた。明日から、私は東和製薬のシステム監査担当として活動を開始する。表の顔は、いつもの村上。しかし、その裏でGとして証拠を集めていく。
新しい携帯に、もう一つのメッセージが届く。
「あなたの活躍を期待しています。 – A」
青空を見上げる。心臓の鼓動が早くなっているのを感じた。これが、正義のための一歩なのか、それとも破滅への序章なのか。
その答えは、誰にも分からない。
(続く)